パンとサーカスは古代ローマの人心を掌握する手段であり、権力者の人気取り政策でもあった。ただし、この恩寵・恵与とその享受との間には、持ちつ持たれつの相関がうかがえる。単に物的な満足によって市民が脱政治化したとか、政治が堕落したとか見なすのは、やや今風の判断かもしれない。いずれにしてもローマ帝国では、愚民化がお祭政治をさらに押しすすめた。 現在はどうか。たとえばオリンピックは現代におけるサーカスの代表例だろう。その憲章(Olympic Charter, 2019)は「根本原則」において、「オリンピズムはスポーツを文化、教育と融合させ、生き方の創造を探求するものである」と自己を定義する。そして「人間の尊厳の保持に重きを置く」ともいう。「生き方の創造」や「人間の尊厳」を建前とするスポーツの祝祭で、新たなウイルス(たとえば五輪株?)を混成・拡散させて東京が〝第二の武漢〟になったら、どう言い逃れるつもりか。 東京オリ・パラの開催目的について、菅首相は5月に記者の質問に文書で回答した。 「五輪・パラリンピックは世界最大の平和の祭典であり、国際的な相互理解や友好関係を増進させるものです。安全安心な大会を実現することにより、希望と勇気を世界中にお届けできるものと考えています」。 翌6月に大会組織委員会の橋本会長はこう述べている。 「世の中にはこんな時代になぜ五輪・パラリンピックを開催するのかという声もあります。しかし、このような困難な時代だからこそ、私たちはオリンピック・パラリンピックを開催し、コロナによって分断された世界で人々のつながりや絆の再生に貢献し、スポーツの力で再び世界を一つにすることが、今の社会に必要なオリンピック・パラリンピックの価値であると確信しております」。 世界的な感染爆発(パンデミック)のさなかに「安全安心な大会を実現」でき、「スポーツの力で」新型ウイルスに打ち勝てるのなら、誰も1年半以上も苦労しない。政府が後手を踏み続けるおかげで、ワクチン接種などによる集団免疫で日本は先進国中の周回遅れだ。自国民の生命がむき出しに蹂躙されて子どもたちの運動会さえままならないときに、国際運動会に約3兆円もの公費を外注の連繋(ピンハネ?)などにつぎこみ能天気な世迷言をまき散らす。公務なら背任に近いか。この役職者たちは精神主義の五輪ボケなのか。まるで竹ヤリでB-29戦略爆撃機(Boeing B-29 Superfortress)を叩き落とすなどと豪語するようなものだ。
本大会の招致ポスターには「今、僕たちには夢が必要だ」とある。これも五輪ボケの好例だ。しかしその「夢」は、大手広告代理店がひねり出した初稿における「お金が動き、人が動き」の置き換えにすぎない。パン(銭もうけ) とサーカス(観戦) という政略がいま正夢になる。気恥ずかしいほどにナマな本音だ。日本型資本主義では無観客にしてもオリンピックをやめられないのだろう。そして判断力が欠落している首相は、既存の錬金システムを保持しながら、感染無策で低迷する支持率をオリ・パラで嵩上げして政権居座りを狙うか。愚策と無策が相乗して、本格的なコロナ禍で金流と人流が動きだす。
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