ふと「パンとサーカス」という言葉を思い出した。昨今の「東京オリンピック・パラリンピック2020」のドタバタ芝居を見せられているからだろう。政治学などに接したことのある人には懐かしいフレーズかもしれない。古代ローマの皇帝たちが、市民の歓心を買うために使った二大戦術だ。人心を収攬する強力な手段であり、撫民→愚民という思惑もあったはずである。オリ・パラは現代のサーカスなのか。
まず一つ目の「パン」とは、当然ながら食糧を安定的に供給することだ。食の確保は、権力者が地位を維持するには必須だったろう。飢餓のなかで皇帝を崇め奉るはずもない。問題はその先だ。たとえば聖書には「人はパンのみにて生くるものにあらず」とあり、神の言葉によって生きるとされる。物的な衣・食・住のほかに、心的な必需品が要るのだ。ここに「サーカス」という娯楽の意義もあった。
ただし、この場合の「サーカス」とは、こんにちの曲芸サーカスではない。古代ローマでは、複数の馬が引く戦闘馬車による競走が盛んだった。その競技場をキルクス(circus)という。現代のサーキット(circuit)の語源だ。もとは戦車の競走だったが、しだいに対象が広がって無料で提供される市民向けのエンターテインメントを指すようになった。代表例は円型闘技場(写真)での剣闘士の試合だろう。
パンとサーカスの原語は、ラテン語のpanem et circenses(パヌム・エト・キルケンセス)である。2世紀前半に活躍した弁護士で詩人のユウェナリス(Juvenalis)が、帝政初期の世相を皮肉って『風刺詩集』(Satyrae)のなかで使った。権力者から無償でパン(食糧)とサーカス(見世物)を与えられることによって、ローマ市民は政治を知的に観察する理性を失っていると指弾した。
広大な占領地と多数の奴隷とによって、ローマでは豊かな暮らしができた。彼らはしだいに仕事をしなくなり、権力者に食糧を要求するようになった。人々からの非難を避けるために、迎合政治はパンを作る小麦粉を市民に与えた。そして働かないローマ人たちはヒマをもてあまし、娯楽としての見世物を心待ちにして熱中した。
当時は愚民化がお祭り政治をさらに押しすすめた。現在は逆に、お祭り政治が愚民化を促進しようとしているのか。オリンピック憲章は「生き方の創造を探求するもの」と自己を定義する。「生き方の創造」が建前のスポーツ祭典において、ウイルスの災厄を東京から世界に撒き散らしたら、いったいどう言い逃れをするのか。コロナ禍のなかで、古典古代の教訓を読み解きたいものだ。
※HP編集の都合で掲載が遅くなりましたこと、お詫び申し上げます。(主任研究員・安藤)
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